The road less taken

卒業式などでよく引用される詩としてDavid FrostによるThe road less takenがあります。特に最後の数行”I took the one less traveled by, And that has made all the difference.”という箇所があります。この詩の解釈は色々とありますが一般的には“狭く見える道でも自分で決めた道を進もう“という意味で使われます。 聖書にも同じようなキリストの言葉があります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていて、そこから入る者が多い。」 聖書には神を信頼して狭い門から入った人たちの話が多く出てきます。普通に考えるともっと安全で簡単にお金が手に入る道を選択する方が妥当なのにどう見ても苦難が待っている道を選択した人たちです。例えばDisneyのPrince of Egyptという映画の主人公のモーセです。聖書に書かれた狭い門から入った人たちの人生を読むと人生をしっかりと走りきった人たちの姿を学ぶことができます。 英語でも言いますね。You live only once!周りの目を気にしたり安全を目指す生き方よりも自分らしく生きる方が本当は最高の人生になるのではないでしょうか?でもそれは言うは易く行うは難し、ですね。なぜ聖書に出てくる人たちがそのような生き方をできたのでしょうか。秘訣は信仰であったことは明白です。 “わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”- 聖書 人間はひとりひとりがすべて目的を持って創造され神様に愛されているということ、そして才能は異なり境遇も違うように意図を持って生かされています。その中で自分らしく生きることは神様は喜ばれ、そして先には神様が暖かく迎えてくれる永遠の世界が用意されていることを聖書では教えています。この事を信じて自分らしく思い切った生き方をしたいですね。 You only live once!

最高裁判事

アメリカは大統領選挙日まで後1か月ほどです。4年に一度のこの大騒ぎですがスポーツ観戦のようにハラハラしますね。特に今回はトランプ大統領という何かとお騒がせな大統領とトランプさんを何としても引き下ろそうとする民主党の戦い、コロナ騒ぎにBLMという要素が重なってどうなるかわからない様相を呈しています。それに加えて最高裁判事に保守的な立場のエイミー・バレット氏が選挙直前に使命されるということも重なり、これからもオバマゲートやバイデン氏のチャイナ疑惑なども表面化してくるものと思われます。 ところで今回最高裁判事に指名されたバレットさんですが彼女は7人の子供の母親です。うち二人はハイチの子供を養子として迎え入れて育てています。5人の子供を育てるだけでも大変なのに二人の養子を育てることは大きな犠牲が伴ったことだと思います。 今は若い人達を中心にBLMの動きが広がっています。BLMだけでなく貧困や社会的弱者を助けよう、という動きが色々とあります。この動きや彼らの主張を考える時に疑問に思わざるを得ないことがあります。それはこの動きに参加あるいは共感している人達のどれだけの人たちが自分自身が大きな犠牲を払おうという決意を持って参加しているのか、ということです。社会的なシステムを改善していくことは大切ですが結局は個人個人の心の問題だと思います。個人的な犠牲を払う決意を持って問題に取り組んで行くことなしに社会は良くならない、かえってシステムに頼る人間を多く作ることにより社会はだめになっていくのではないかと思います。 聖書ではこのように書いています。 “あなたがたは、神に愛されている子供として…愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。” 私は本来は自分勝手な人間ですがキリストを通して人を愛せる人間に変えてもらえることができることを信じ期待しています。最高裁判事に指名されたバレットさんのようにキリストにより変えられて社会に役立つ人が多く出てくることを祈っています。

信仰

信仰という言葉から何を連想されるでしょうか?科学が発達する前の昔の人が見えない何かにすがっていたようなもの、あるいは弱い人の妄想のようなものでしょうか?「苦しい時の神頼み」でしょうか?   信仰に関して聖書にはこのように書かれています。 “信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。” 世の中にははっきりと分からないものが多くあります。私たちの将来がどうなるかは分かりません。コロナウイルスが今後どうなるかはっきりと分かりません。他の人が自分のことをどのように考えているのかも分かりません。体が死んだら魂はどうなるのでしょうか?私たちは分からないことにだらけの世界で暮らしています。   私たちは分からないことが多い世の中で生きているので“自分は目に見えるものしか信じないし頼りにしない”と言っても不確定なものに関して何らかの対応をする必要があります。その際に人は自分の持っている価値観、世界観に基づいた判断をすることになります。   キリストへの信仰は世界観を変えてくれるものです。限定された世界観から目に見えないものに対しての確信と指針を与えてくれるものです。自分がどこから来てどこに向かっていくのかに関しての確信を与えてくれます。善と悪に関しての指針を与えてくれます。人生の意味を教えてくれるものです。信仰を持ったからといって苦しみや悩みから逃れさせてもらえるものではありません。聖書が教えている信仰は苦しみや悩みの中にあっても希望と喜びを持って生きる力を与えてくれるものです。聖書にはこのような喩えが書かれています。 “だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。” 人間は神の形に素晴らしく造られたものであることを聖書は教えています。それと同時に神様だけが満たしてくれる部分があり神様のことを知らない人生は不完全なものであり究極的には滅びに結びつくものであることも教えています。そのような不完全な自分でも喜びと確信を持って生きることができるようにしてくれるのが聖書に書かれている信仰です。

Opening up!

やっとレストランも徐々にOpenしています。公園などに行くと家族連れなど普段よりも多くの人がいます。やっと社会に活気が戻ってきて気持ちが前向きになります。会計士をしていますが多くのビジネスが大変な状況にあったのでこの“Open”を首を長くして待っていました。過去数か月の社会閉鎖が再びないことを祈っています。 私自身は今回の経験を通じて社会の脆弱性を再認識しました。ウイルスへの防御という訳ではなくマスコミの偏った報道により大衆の意見が左右され、それが政府の判断に極端な影響を与える時に社会は一定の方向に急速に流れていく、ということです。事実に基づいた正常な判断どころか意見が言えないような風潮が社会に蔓延してしまうことです。おそらく日本が太平洋戦争に突入した時、またナチスドイツが台頭した時の社会状況を少し経験することができたのではないか、と思っています。 聖書では歴史には終わりが来ることを語っています。終末時代と言われますがその時には反キリストと言われる世界を操作する人物が現れ社会は多元的なものから一元的なものに変わっていくことが予言されています。世界中の人による情報の共有化が進んでいる現代はまさにそのような時代に突き進んでいるような気がします。メディアを支配することにより世界の方向性を変えてしまうことができる世の中がすぐそこまで来ているように思います。 このような社会に生きている私たちは今まで以上にしっかりとした価値観と世界観を持って生きていくことが必要だと思います。 聖書には“恐れるな”という言葉が80回以上も出てきます。人間はすぐに不安に負かされるものであることを知っているからです。そのような私たちを励ましと方向性を与えてくれます。 “主(神)を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。” “主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。” “この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。” “私(神)の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。” 情報量が多いこの時代は何を信じて生きていくのかが分かりにくい時代です。3500年前から変わらない聖書のメッセージに耳を傾けられることをお勧めしたいと思います。

豊かな人生

人間関係は難しいことも多いですね。夫婦、親子、友達、仕事など色々な関係がありすべてが上手く行くわけではないですね。 聖書には興味深いことが書いてあります。人間関係というと人間と人間との横の関係、あるいは仕事などの組織の中での縦関係を考えますが聖書では神という第3者を介在させてきます。聖書で教えているのは人間の創造者としての神です。人間関係に1次元追加してくる訳です。 聖書では人を見ないで神様を見なさい、と言っています。神を愛し人を愛する、ということです。西郷隆盛が座右の銘とした言葉”敬天愛人”を連想させる言葉です。紀元前1300年頃から1400年間の間に書かれた聖書の中でも最も大切なテーマです。人だけを見るのではなく神に目を留めることが人間関係を充実するためには大切であると言っているのです。色々な関係の真ん中に神様を置く、そしてお互いに神様を見て関係を構築していくことにより好き嫌いを超えた理想的な関係を作っていくことができることを教えています。 ある律法学者とキリストの会話が聖書には以下のように記録されています。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 神を愛すること、そして隣人を愛すること、それが聖書の教えを凝縮したものですよ、ということです。 でも見たこともない神様をどうして愛することができるの?これは当然の疑問です。特に日本人にとっては“神様”といわれてもピンと来ないことが多いのではないでしょうか。そのことに関して聖書は以下のように教えています。 ”神を愛するということは神が創造して愛されている人間を愛することです。ただ全ての人を愛することは人間の力ではできません。自分の敵を愛することができるようになるには神様の自分に対する愛を理解することが必要です。神様の愛が分かるようになると敵をも愛することができるし当然神様を愛することにもなるのですよ。”   これは人間関係だけでなくすべてのことの基礎にもなると思います。仕事においても目先の利益ではなく神様のことを思う。お金のことに関しても神様のためにどのようにお金を役立てることができるか、ということを考える。自己実現に関しても逆に自己を捨てることにより自己実現ができることを教えています。 ”自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを見いだすのです。” 豊かな人生を送る秘訣はここにあると聖書は教えています。まずは聖書を通して神がどのような方か発見することに挑戦してみませんか?

コロナウイルス

コロナウイルスによる不安が世界中に広がっています。各国の政府、自治体、諸団体が次々と注意を喚起し様々な規制、自主規制を施行しています。マスコミは騒ぎ人によっては大きな不安を感じ物の買い溜めに走っている人もいます。 私たちは注意しっかりとして思慮深い行動を取るべきです。ただ極端な恐れを持つべきではありません。英語の“Fear“は”False Evidence Appearing Real”の頭文字である、と言われることもあります。恐れに関して聖書の言葉をいくつか紹介いたします。 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。 恐れるな。わたしはあなたを買い戻したのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ。 神の完全な愛はそんな恐れをすべて取り除きます。 聖書には“恐れるな”という言葉が80回以上も出てきます。私たちを造った神は私たちが恐れに囚われてしまうものであることを良くご存知だということです。そんな私たちに、“恐れることはないよ、I’ve got it!“という神のメッセージを伝えているのが聖書です。 心配したからと言って状況が好転する訳ではありません。逆にしっかりとした土台(神の愛)に信頼をして前向きに歩んでいくこといい人生を送る秘訣ではないでしょうか?

苦労を苦にしない

先日職場で2019年に関して感謝すべきことは何か、という事に関して数人で集まり話しました。みんながそれぞれ感謝していることをシェアしましたがほとんどの感謝事項はその前に経験した苦しみや痛みの経験と結びついたものでした。病気や金銭的あるいは人間関係の問題とそれを乗り越えることができた経験が感謝に結びついていました。 人生は簡単ではないですね。誰しもが困難にぶちあたります。現実の人生は困難にあふれているのと観るのが正しい人生観だと思います。前向きな考え方はもちろんいいのですが人生は困難がないはずだ、人生は楽であるべきはずだ、自分は安楽な人生を送る権利がある、と考える事は結局のところ不平不満の元となるのではないでしょうか。他の人たちのフェースブックに載せられている人生が本来の人生だと考えることは危険だと思います。アメリカや日本に住んでいる人の多くが間違った“権利意識”を持って生活をしているように思います。このような間違った権利意識は人生に対する不満を増長するものにします。発展途上国に行くと特にこのことを考えさせられます。 人生の苦難に関してですが聖書では親が子供をしつけるように神様が私たちを人生の経験、特に困難を通じて練り上げてくださるものだと教えています。ただ困難は多くの場合は自分の浅はかな行動から招いているものであることも現実です。神様はそのような困難も私たちの成長のために用いてくださのです。 患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:3~4) また聖書はこの世は罪により本来創造されたものではなくなっていることを教えています。ただそのような世の中でも神様を信頼し正しい世界観を持つ人には喜びと満足を与えてくださることを約束しています。その喜びは状況により大きく左右される喜びとは違うものです。神様は一人一人を愛して究極的には良いものを与えてくださる方であることを聖書では示しています。 「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハネ14・27) カーペットなどの織物は裏から見ると訳が分からなく混沌としています。ただ混沌としていればいるほどひっくり返して見ると見事に精緻で美しい織物を見ることができます。私たちは人生を限定的な一面から見ているに過ぎません。歴史を始めすべてを支配されている神様の視点からみると美しい織物が出来上がっていることを聖書は示しそのような世界を楽しもう!と私たちに教えてくれています。 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 (伝道者の書3:11)

自分より大きな存在

クリスチャンの考え方のポイントは自分より大きな存在(神)を認め、そして自分の存在意義をその存在の下に置くということだと思います。 これがどういうことかというと人の人生は自分が中心のものではない、ということです。“あなたを造られた神が世界や歴史の主役であなたは脇役ですよ”ということです。そして聖書は“自分が何をどうしようかと考えることは大事だけでそのことで悩むよりまずは神が主役であることを受け入れ、自分より大きな存在が提供してくれる人生の道を歩んでごらん”と語りかけてくれています。 自分だけでできることは小さいことです。そんな小さな存在である自分の力に頼って生きることはあまり賢い選択ではないと思います。自分よりも大きな存在が与えてくれる目的、自分だけではできないようなことを目標にして生きることが本来の人生の意味なんだよ、と聖書は教えています。私たちは自分が何をすべきか、何ができそうか、などに捉われすぎているのではないでしょうか?自分よりも大きな存在がいることを信じ、その方にメッセージである聖書の語りかけに信頼をしてあまり自分自身に囚われずに生きていくことがいいのではないでしょうか。スポーツでも仕事でもそうですが自分だけではできない目標を持ってそれをみんなで達成することは自分の小さな目標を達成するより充実感や喜びは大きいと思います。励ましあえる仲間がいることだけでもいいことですね。   キリスト教は聖書を元にしています。その聖書に描写されている神は人格を持つ神(実際は人間が神の形に造られた、と書かれています)です。聖書では神が自らの愛を人間に示すために人となってこられたのがイエス・キリストである、と書いています。以下抜粋です。 “神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。” “私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。” “あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくだ さるからです。” だからDon’t Worry. 神様に信頼して人生を歩むことを決めた時から格段に素晴らしい人生を始めるきっかけが生まれます。Better late then never!

Abundance Mentality

考え方ひとつで人は変わるものです。人の世界観はその人に大きな影響を与えます。世界観は様々な要素から成り立っていますがそのうちの一つが“Abundancy Mentality(物事は豊かにある)”と“Scarcity Mentality(物事は不足している)”という対照的な2つの世界観です。 Abundancy Mentalityを基本的な世界観として持っている人はコップに水が半分入っているのを見て”半分もある“と考えます。半分もあるのだから人に分けることもできる、と考えます。また世の中には十分な資源があり水はまたコップに満たされてくる、と考えます。 それに対してScarcity Mentalityを基本的な世界観として持っている人はコップに水は半分しか入っていない、と守りの姿勢に入ります。そして世の中には資源は限定されているのだからできるだけ人から奪わなければコップに水を満たすことができない、と考えます。他のひとにシェアをすることに非常に抵抗感を感じます。 聖書にはこのように書かれています。“与える方が受け取るより幸いである。” 何かを受け取る時ももちろんそうですが私たちは与える時に喜びを感じるように造られています。人に親切にした時、助けた時、あるいは何か経済的な援助をしてあげた時など自分も幸せな気持ちになれます。言葉だけで世界を創造された神様は無限の力を持っていらっしゃいます。聖書に書かれている神様の存在を信じることは神様がその無限の力を持って私たちを助けてくれることを信じることです。 聖書にはこのように書かれています。“あなたが十分の一をささげれば、私はあなた方のために天の窓を開いて受け止めることができないほどの祝福をあふれるばかりに注ごう。” 祝福というものは経済的なものに限られません。ただ世界を創造した神様が作られた法則では与えるものは人間関係が祝福されビジネスにおいても成功する確率が高まるようになっている気がします。“金は天下の回りもの“とも言いますね。神様に愛されているのだから神様を信頼して人生やっていきましょう。そしてAbundancy Mentalityを持って周りにシェアをして人生を楽しんで生きましょう。 たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか。-聖書-

明け渡し

クリスチャンの世界観のひとつに“明け渡し”という概念があります。 私たちは絶えず身の回りの状況や環境に能動的に働きかけ、自分たちの目的を達成するように努力をします。私のように目的志向が強い人ほどこのような傾向が強いと思います。人類の発展は多くがこのような環境に対しての戦い、あるいは自分たちにとってより良い環境を作り出すための努力の結果です。 その反面クリスチャンの概念のひとつに“明け渡し“というものがあります。私たちは状況に能動的に働きかけチャレンジを克服していくことにより成長していきます。ただそれだけではなく本当の成長は神様への明け渡しをすることにより自分自身が完成されていく、という概念です。 明け渡しとは何でしょうか。それはすべてのことに神の御手が関わっていることを認めることです。そしてそれが自分にとって最善のことである、ということを信じることです。人生には小さな困難から乗り超えることができない困難までいろいろなチャレンジがあります。それらすべてに神の心が働いていることを信じそれが自分の益になること、それにより自分の力では成長しきれない神様によってのみ成し遂げられる自分の成長を期待することです。それはどんな状況でも希望を捨てないことを学ぶことでもあります。人生何でも自分の力で切り開いていくのではなく神様の導きを待つ忍耐を学ぶことでもあります。 人生とは何でしょうか?この人生で成功することが目的でしょうか?それともこの人生の次に永遠の世界がありこの人生はその世界に向けての準備とトレーニングの場所なのでしょうか?クリスチャンはこの人生自体に大きな意味があることを信じています。ただ人生の一番の意味は次の世界へのトレーニングであることも信じています。そしてトレーニングのひとつが神様の導きを待つ“明け渡し”を学ぶものと考えます。この人生で成功をするかどうか、金持ちになるかどうか、有名になるかどうか、よりも神様に与えられた機会、才能をどれだけしっかりと活用したか、またそれだけでなく神様に与えられたトレーニングをしっかりと積んだか、により人生の本当の意味が出てくる、と考えるのです。 人生の意味は“自分”にあるのではなく創造者である神にあるからです。そして聖書にはこのように約束が私たちに与えられています。 聖書の言葉 “神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。” “わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。”

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