クリスマスストーリー

今これを書いているのはクリスマスです。  クリスマスはイエスの降誕を祝う祝日です。それにしても聖書が記す話は不思議なものです。  神が宇宙を創造された。その中でも人間が神の形に創造された最高傑作であった。残念なことに自由意志を与えられた人間は自分が神のようになることを選んだ。これにより罪がこの世界に入り、それ以来歴史は争いに満ち本来の創造された形から堕落してしまった。  そのような人間を救うために神ご自身が自分が創造した世界に生まれた。それは聖霊によるものである。神そのものが人間という形に下がってこの世に生まれたのである。しかもその目的は犠牲のささげものとなるためであった。それがユダヤ人に約束をされていたメシヤであった。  イエスはその筋書き通り十字架にかかって亡くなった。それは全人類の罪を引き取るためであった。しかしイエスは今はよみがえり天に帰り私たちひとりひとりがその犠牲の贈り物を受け取って神の元に帰ってくることを待っていてくださっている。この贈り物を受け取るものは神の元に帰ることができる。受け取らないものは永遠に神から離れた世界に行く。  神自身が自分を犠牲にした?この世界は究極的には神が意図された状態に戻る?その時に犠牲の贈り物を受け取ったものが素晴らしく再創造された世界で神と生きることになる?これはおそらく今まで造られたどんな映画や小説よりも壮大で奇なる話ですね。  ただこの話が本当だとすると?  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。  その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。-聖書― 

神の平安

命は本来は神様からの贈り物です。神は人間をご自身に似たものとして創造してくださり世界を神の元で治め神との交わりの中で生きて行くように素晴らしい地球を与えて下さりました。それに対して人間は神を離れて自分勝手に生きて行くことを選択したことが聖書の最初の部分に書かれています。 ただ神は人間ひとりひとりを愛し今もご自身の元へ帰ってくるように語りかけてくださっています。私自身も今まで結構好きなように生きて来ましたが神様との近い関係で生きていくことの喜びを発見しつつあるものです。 神様との近い関係とは教会に行く、あるいは聖書を多く読むということではありません。もちろん聖書を通し神がどのような語りかけをしてくれるかを期待して読むことは大切です。また他の同様の志を持った方々との交流も大切だと思います。ただもっと大切なことは生活全般に関して神の意志、語りかけを感じながら生きることだと思います。神と近い関係にある生き方をする時に自分が置かれた状況や周りの状況に影響されない平安や喜びが与えられるからです。それは神が与えて下さるものです。神はご自身しか満たすことができない心の空洞を私たちの心にちゃんと造られているからです。 “何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして、祈りに答えてくださる神に感謝しましょう。 そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神の平安を経験します。キリスト・イエスにあって、その平安はあなたがたの心と思いを静め、安らかにしてくれるのです。” -聖書― 私たちはみんな幸せを求めています。健康、お金、趣味、友人との楽しい時、仕事の充実などを日々求めて生きています。これらの事はいいことです。私も約1か月の海外旅行から帰って来たところです。楽しい旅でした。ただこれらのもの以上に私の心を喜びと平安で満たしてくださるのが神が与えてくださる喜びと平安です。毎日これを味わいながら生きることができる人生は本当に幸せなものだと思います。これは年とは関係なく味わえるものです。神に感謝の毎日です。

イスラエルと聖書予言

イスラエルが先日ハマスによるテロ行為により人命を含む大きな損害を受けました。心が痛みます。また世論がいつもユダヤ人に敵対するものが多いことに関しても通常でない力が働いていることを感じます。 聖書によるとアラブ人とユダヤ人の確執は紀元前1900年ごろにまでさかのぼります。アブラハムがユダヤ人とアラブ人の共通の先祖ですがユダヤ人はイサクという正妻サラの子供の子孫でありアラブ人は召使いハガルとアブラハムの間に生まれたイシュマエルの子孫です。アブラハムとサラが老齢になった時”子供を与える“という神の約束を待つことよりも召使によって子孫を残すことを選びました。そしてイシュマエルが生まれた時に聖書は以下の予言をしています。 「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」 以来イシュマエルの子孫はユダヤ人と争っています。 ただユダヤ人に敵対するのはアラブ人だけではありません。ご存じの通りヨーロッパでもユダヤ人は多くの迫害の歴史があります。ユダヤ人は世界に模範となる民として神に選ばれた民であるにも関わらず苦難の歴史が続いています。 聖書ではユダヤ人の苦難の歴史を予言しています。またユダヤ人が世界中に散らされるが集められゆくゆくは平和に現在のパレスチナで暮らすようになることも予言されています。ただ平和で暮らすようになった時に大きな敵からの攻撃を受けることも予言されています。 ユダヤ人が現在のパレスチナを追われ1900年間流浪の民となり各地で迫害を受けた後1948年に元々住んでいた土地で再度建国をしたこと、その後も周りから攻撃されていることなど私たちは聖書予言が成就することを目の当たりにしています。今後どのようにして平和がイスラエルに訪れるかは分かりませんが世界を創造し歴史を支配する神を信じる者としては心配することはありません。最後はキリストが世界を治め平和が訪れることが予言されているからです。ただイスラエル、パレスチナ人両方ともに平和が早く訪れることを祈ります。またハマスの心が憎悪から愛に変えられていくことも願います。人間は皆神に創造された価値ある存在だからです。 混沌とした世の中ですが神に信頼する人は恐れることはありません。希望を持って生きて行くことができます。そのような神様のことを聖書を読んで知って愛が心を支配するようになる人が増えて行くことを祈ります。 祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木のようになり 川の流れにその根を張り 暑さが来ても恐れず。その葉は茂っている。旱魃の年も恐れず 絶えず実を結ぶ。-聖書―

アフリカとフランスへの旅

現在約1か月の家内とのアフリカとフランスへの旅の帰りの飛行機の中でこのブログを書いています。 まずはケニアとウガンダに行きました。両国にいる友人を訪ねて`です。2つの国で友人たちと素晴らしい再会ができました。人間はどこに行っても変わらないことを感じました。アフリカというと日本やアメリカに住んでいる私にはあまり馴染みがなかったのですが友人たちやホテルのスタッフなどみんな温かくもてなしてくれました。ただ気になったのは街にゴミが多くあることです。自分たちの街に対してのいい意味での誇りがないように思いました。友人たちによると植民地となった国の多くがそうですがアフリカの諸国も政治的な腐敗が蔓延しているようです。リーダーシップの大切さを改めて感じました。 南アフリカにも行きました。アパルトヘイトは廃止されましたがまだまだ白人と黒人の格差があります。信号も半分くらいは電力不足で機能していません。リーダーの間違った考え方が何世代にもわたって影響をするものであることを感じました。 その次にフランスに行きました。娘が住んでいるので一緒に車で回りました。歴史と文化を感じ、田舎は美しくアフリカとの差を感じました。ただパリやボルドーといった都会は日本と同じで特に若い人が多く喧噪が日本の都会以上でした。 これらの国々を見て以下の聖書の言葉を思い起こしました。 “ビジョンがなければ民は滅ぶ”  国も組織もビジョンが大事だな、と感じました。またリーダーの心構えとして以下のことも聖書に書かれています。 “あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。”               リーダーシップ次第で国は反映あるいは衰退します。また間違った考えを持ったリーダーを持つと何世代にもわたって悪い影響を与えてしまいます。 国によって人々の生活は違います。裕福さも違います。ただすべての人が神の子供として想像されています。一度だけの人生をどう生きるか、環境は大きな要素ではあるものの社会を変えようと活躍しているアフリカの友人たちを見て人生は物質的な豊かさではなく目的を持った生き方、また人間関係などがもっと大事なことを再確認できました。人間は肌の色が違っても文化が違っても神様により一人一人が特別に創造されています。縁を大事にしてお互いを大切に尊敬を持って接していくときっと人生も楽しくなりますね。

素晴らしく作られている

世の中には目の見えない方もいらっしゃいます。目が見える、とうことが何と幸せなことでしょうか! 聖書には私たちは偶然に進化して生まれてきたものではなく、神様がお母さんのお腹の中で作られた、と書かれています。この歴史を支配する神様が私たち私たち一人一人のことも気にかけて作ってくださった、ということです。聖書にはダビデ王による以下の賛歌があります。 “あなたは、わたしの内臓を造り母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 わたしはあなたに感謝をささげる。 わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。 御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている“。 人間どこかした不完全な部分はあります。そんな中で神様からいただいた恵みを感謝して生きていくことは素晴らしい生き方だと思います。目が見える、ということだけでも考えてみるとすごいことです。素晴らしい自然や人間が作った芸術などを鑑賞する、危険や悪いものを発見してそれを避ける、など見えるということは素晴らしい機能です。偶然にこのような機能を動物が習得して行ったとは考えにくいです。神様が与えて下さった贈り物として考えて感謝して生きていきたいですね。 同じことが聴くこと、歩くこと、など多くの事にも言えます。年を取ってくると以前ほど跳んだり跳ねたりはできませんが散歩をして自然を見て聞いてEnjoyすることはできます。ゆっくりと歩くからこそ深く鑑賞できることもあります。ゆっくりとあせらずに周りのこと、周りの人を感謝して生きていくことは意識をしていけばできるものだと思います。 自分の置かれた場所、状況に関わらず感謝する生き方をしたいですね。神様はそのような生き方を喜んで下さっているはずです。私たちは神に特別に創造され愛されているものですから。歴史上もっとも裕福であった、と言われているソロモン王はこのように書いています。 “人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。 しかしそれも、わたしの見たところでは神の手からいただくもの。“ 神様からいただいた多くの恵みに感謝をしてEnjoy Lifeしましょう!          

イースター

今日はイースターです。キリストの復活を祝う祝日です。 キリスト教はキリストの教えから始まった訳ではありません。キリストが十字架で死んで葬られた時にキリストのことを救世主と思いキリストに従っていた人たちは連行されることを恐れて隠れるか処刑が行われたエルサレムから離れました。キリストが教え、癒しなどで実践した愛の教えは終わりまた元のローマ帝国に支配されたユダヤ人としての生活に戻ることになると誰もが思いました。キリストは死にキリストの教えも過去のものになったのです。 ただ死んで3日目の朝に墓を最初に訪れた女性たちが”キリストが墓にいない“という知らせを告げました。そして弟子たちのうちの二人もその確認の為に墓に行ったところ墓は空になっていました。そして何と死んだキリストが弟子たちを始め500人以上の人に現れ一緒に話し、抱擁し、食事をしたりしました。キリスト教は墓に確認をしに行った女性たちが”キリストが墓にいない“という知らせを告げた時から始まり世界を変えることになったのです。 “キリストが復活をした“という話は多くの目撃者によりまずはユダヤ人に、そしてローマ帝国の間に広まっていきました。キリストの弟子のひとりであるトマスはインドにまで復活の知らせを伝えるために行きそこで死んでいます。キリストの復活を目撃した弟子たちは自然死をしたヨハネ以外はすべて殉教の死を遂げています。(伝説ではヨハネも熱湯に入れ殺されようとしましたが殺すことができなかったということです)聖書を読むと弟子たちは復活のキリストに会う前は弱い普通の人間であったことが分かりますが同じ人たちが復活のキリストに会ったことにより劇的に変わりました。そして歴史を変えることになったのです。 現在は世界中に数十億といわれるクリスチャンがいます。イースターは歴史を変えたこの出来事を祝う日です。復活のキリストは十字架にかかる前に“自分が天に挙げられても聖霊を遣わしキリストに従う者を助けて下さる”と約束されました。イースターは単に歴史的な出来事ではなく復活のキリストを信じ聖霊を受け入れる時に私たちの人生も大きく変わりますことを祝う日です。 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。-聖書-

昨日はキリストが十字架で人類の罪を背負って死んだGood Fridayです。そして明日はキリストが3日目に死に打ち勝って復活されたイースターです。神の私たちへの愛が示され人類の救いが提供された祭日です。 今日は聖書で愛のことを書いている箇所を書き出してみます。  “神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”  “わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。”  “わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。”  “愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。”  “預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。しかし愛はいつまでも絶えることがない。”  “わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。”  “それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。”  聖書には神のことを“愛”と書いています。神に愛されているのだから互いに愛し合いなさい、とも書いています。ただ残念ながらこの世界に罪が入り込み神の愛が完全に反映される世界ではなくなったことも書かれています。自分の主義や主張も大事ですが何よりも愛を実践して愛を持って周りを明るくするような人間になりたいですね! 

愛は恐れを取り除く 

聖書では繰り返し”恐れるな“という言葉が書かれています。新約聖書ではこれをしてはならない、という命令はほとんどありません。ただ”恐れるな”という言葉はところどころに記されています。  ただ人間をやっていると何も恐れないで毎日を生きることは無理です。みんな心配事があります。お金、健康、人間関係など人によって違うとは思いますがみんな何らかの心配を持って生きています。  色々な心配をしながら生きて最後死ぬ際も死んだ後どうなるのだろう、と心配をしながら死ぬのでしょうか?聖書はそれに対して次のように語っています。  神の完全な愛は、そんな恐れをすべて取り除きます。恐れている人は、神の愛をまだ十分理解していないのです。-聖書―  恐れを取り除く鍵は神の愛を受け入れることだと書いています。超自然的な存在としての神が単に存在しているだけでなく私たちのことを愛してくださり、面倒を見てくれること、そして私たちの幸せを誰よりも願っていてくださる神がいてくださること。そしてその神に背を向けて生きることこそ罪であることを書いています。元々新約聖書が書かれたギリシャ語で罪という言葉は“的外れ”という意味があるようです。聖書は私たちが心配をしながら生きているのは神様のことを本当に理解しないで的外れな生き方をしていることによる、ということです。  新約聖書の多くを書いたパウロという人がこのように書いています。  「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」  生きていると多くのチャレンジがあります。またつらいこともあります。でもどんなことがあっても神様が愛してくださっている!そして最後はすべてを益としてくださる、という確信を持って生きる人生は素晴らしい人生だと思います。 

奇跡の人生 

聖書には神に私たちが信頼をする時神が私たちと共に歩み助けてくださることが約束されています。そして人生は喜びと平安にあふれるものとなることも約束されています。  ただそのためには条件があります。それは以下の3つの条件です。  まずは私たちを造り愛してくださっている神が存在し、その神ご自身が十字架にかかり私たちの罪の贖いをされたことを信じることです。  ”神は,その独り子をお与えになったほどに,世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで,永遠の命を得るためである” ー聖書ー  次に聖書では自分を捨てることが書かれています。要するに自分の意志で生きていくのではなく神の意志を求めそれに従って生きていくこと。好き勝手に生きるのではなく自分を創造してくれた神の御心を求め、神のされようとされていることに参加する意識を持って生きていくことです。  ”生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。” ー聖書ー  最後ですが神の計画と自分の計画は違うことを認め例え自分の思い通りの生活ができなくても最後は必ず神がすべてをフェアにしてくださること。そして信じて歩む者には神が一歩一歩を導いてくださることを信じることです。  ”人間の心は自分の道を計画する。ただ一歩一歩を備えてくださるのは神である。 ” ‐聖書‐  このような価値観と生き方をする時に神は私たちに自分を現し奇跡の人生を歩ませてくださいます。それは必ずしも健康やお金や名誉を手に入れることではないかもしれません。足りない中でも充足感を、困難の中でも希望を、弱っている時に強さを、すべてがうまくいっている時にも謙遜を与えてくれるものです。  ”この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”   ‐聖書‐ 

聖書に書かれている仕事観

聖書には人生を豊かにしてくれるアドバイスがたくさんあります。その聖書には仕事に関してどのようにアドバイスがあるか見てみましょう。  仕事は良いものである  聖書には神が世界を創造された時の様子が書かれています。6日間の創造の記録ですがひとつの創造の区切りごとに“神はよしとされた。”という描写があります。すなわち神が創造の仕事により満足感を得たことが書かれています。  神は人間に仕事を与えた  また創世記の2章には地球を守る仕事を与えられたことが書いてあります。そして動物の命名を人間に任されたことも記載されています。すなわち神の形に造られた人間には仕事が与えられ仕事を通して満足感を得るようにされたと理解できます。  休むことも大事  神は6日の創造をされたから7日目は休まれたことが記載されています。人間も仕事をすると共に定期的に休むべきものであることが示唆されています。現に神はイスラエルに立法を与えた時に7日目は休むことを命令されています。  このように神は良きものとして仕事を人間に与えられたことが書かれています。ただ人間の堕落とそれに伴い本来は神に捧げ、喜びの基であるべき労働が罪により自分勝手なもの、そしてストレスを伴うものとなったことが書かれています。  本来の仕事の意味そして人生に意味と喜びを与えてくれるべき仕事への態度はどのようなものであるべきでしょうか?この問いに関して聖書にはこのように書かれています。  何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。 あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。  仕事は良いものとして人間に与えられています。これを信じてお金のためだけでなく喜びの態度で仕事をするといやだと思っている仕事も意味のあることに変わってくると思います。 

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