イースター

今日はイースターです。キリストの復活を祝う祝日です。 キリスト教はキリストの教えから始まった訳ではありません。キリストが十字架で死んで葬られた時にキリストのことを救世主と思いキリストに従っていた人たちは連行されることを恐れて隠れるか処刑が行われたエルサレムから離れました。キリストが教え、癒しなどで実践した愛の教えは終わりまた元のローマ帝国に支配されたユダヤ人としての生活に戻ることになると誰もが思いました。キリストは死にキリストの教えも過去のものになったのです。 ただ死んで3日目の朝に墓を最初に訪れた女性たちが”キリストが墓にいない“という知らせを告げました。そして弟子たちのうちの二人もその確認の為に墓に行ったところ墓は空になっていました。そして何と死んだキリストが弟子たちを始め500人以上の人に現れ一緒に話し、抱擁し、食事をしたりしました。キリスト教は墓に確認をしに行った女性たちが”キリストが墓にいない“という知らせを告げた時から始まり世界を変えることになったのです。 “キリストが復活をした“という話は多くの目撃者によりまずはユダヤ人に、そしてローマ帝国の間に広まっていきました。キリストの弟子のひとりであるトマスはインドにまで復活の知らせを伝えるために行きそこで死んでいます。キリストの復活を目撃した弟子たちは自然死をしたヨハネ以外はすべて殉教の死を遂げています。(伝説ではヨハネも熱湯に入れ殺されようとしましたが殺すことができなかったということです)聖書を読むと弟子たちは復活のキリストに会う前は弱い普通の人間であったことが分かりますが同じ人たちが復活のキリストに会ったことにより劇的に変わりました。そして歴史を変えることになったのです。 現在は世界中に数十億といわれるクリスチャンがいます。イースターは歴史を変えたこの出来事を祝う日です。復活のキリストは十字架にかかる前に“自分が天に挙げられても聖霊を遣わしキリストに従う者を助けて下さる”と約束されました。イースターは単に歴史的な出来事ではなく復活のキリストを信じ聖霊を受け入れる時に私たちの人生も大きく変わりますことを祝う日です。 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。-聖書-

昨日はキリストが十字架で人類の罪を背負って死んだGood Fridayです。そして明日はキリストが3日目に死に打ち勝って復活されたイースターです。神の私たちへの愛が示され人類の救いが提供された祭日です。 今日は聖書で愛のことを書いている箇所を書き出してみます。  “神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”  “わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。”  “わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。”  “愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。”  “預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。しかし愛はいつまでも絶えることがない。”  “わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。”  “それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。”  聖書には神のことを“愛”と書いています。神に愛されているのだから互いに愛し合いなさい、とも書いています。ただ残念ながらこの世界に罪が入り込み神の愛が完全に反映される世界ではなくなったことも書かれています。自分の主義や主張も大事ですが何よりも愛を実践して愛を持って周りを明るくするような人間になりたいですね! 

愛は恐れを取り除く 

聖書では繰り返し”恐れるな“という言葉が書かれています。新約聖書ではこれをしてはならない、という命令はほとんどありません。ただ”恐れるな”という言葉はところどころに記されています。  ただ人間をやっていると何も恐れないで毎日を生きることは無理です。みんな心配事があります。お金、健康、人間関係など人によって違うとは思いますがみんな何らかの心配を持って生きています。  色々な心配をしながら生きて最後死ぬ際も死んだ後どうなるのだろう、と心配をしながら死ぬのでしょうか?聖書はそれに対して次のように語っています。  神の完全な愛は、そんな恐れをすべて取り除きます。恐れている人は、神の愛をまだ十分理解していないのです。-聖書―  恐れを取り除く鍵は神の愛を受け入れることだと書いています。超自然的な存在としての神が単に存在しているだけでなく私たちのことを愛してくださり、面倒を見てくれること、そして私たちの幸せを誰よりも願っていてくださる神がいてくださること。そしてその神に背を向けて生きることこそ罪であることを書いています。元々新約聖書が書かれたギリシャ語で罪という言葉は“的外れ”という意味があるようです。聖書は私たちが心配をしながら生きているのは神様のことを本当に理解しないで的外れな生き方をしていることによる、ということです。  新約聖書の多くを書いたパウロという人がこのように書いています。  「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」  生きていると多くのチャレンジがあります。またつらいこともあります。でもどんなことがあっても神様が愛してくださっている!そして最後はすべてを益としてくださる、という確信を持って生きる人生は素晴らしい人生だと思います。 

奇跡の人生 

聖書には神に私たちが信頼をする時神が私たちと共に歩み助けてくださることが約束されています。そして人生は喜びと平安にあふれるものとなることも約束されています。  ただそのためには条件があります。それは以下の3つの条件です。  まずは私たちを造り愛してくださっている神が存在し、その神ご自身が十字架にかかり私たちの罪の贖いをされたことを信じることです。  ”神は,その独り子をお与えになったほどに,世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで,永遠の命を得るためである” ー聖書ー  次に聖書では自分を捨てることが書かれています。要するに自分の意志で生きていくのではなく神の意志を求めそれに従って生きていくこと。好き勝手に生きるのではなく自分を創造してくれた神の御心を求め、神のされようとされていることに参加する意識を持って生きていくことです。  ”生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。” ー聖書ー  最後ですが神の計画と自分の計画は違うことを認め例え自分の思い通りの生活ができなくても最後は必ず神がすべてをフェアにしてくださること。そして信じて歩む者には神が一歩一歩を導いてくださることを信じることです。  ”人間の心は自分の道を計画する。ただ一歩一歩を備えてくださるのは神である。 ” ‐聖書‐  このような価値観と生き方をする時に神は私たちに自分を現し奇跡の人生を歩ませてくださいます。それは必ずしも健康やお金や名誉を手に入れることではないかもしれません。足りない中でも充足感を、困難の中でも希望を、弱っている時に強さを、すべてがうまくいっている時にも謙遜を与えてくれるものです。  ”この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。”   ‐聖書‐ 

聖書に書かれている仕事観

聖書には人生を豊かにしてくれるアドバイスがたくさんあります。その聖書には仕事に関してどのようにアドバイスがあるか見てみましょう。  仕事は良いものである  聖書には神が世界を創造された時の様子が書かれています。6日間の創造の記録ですがひとつの創造の区切りごとに“神はよしとされた。”という描写があります。すなわち神が創造の仕事により満足感を得たことが書かれています。  神は人間に仕事を与えた  また創世記の2章には地球を守る仕事を与えられたことが書いてあります。そして動物の命名を人間に任されたことも記載されています。すなわち神の形に造られた人間には仕事が与えられ仕事を通して満足感を得るようにされたと理解できます。  休むことも大事  神は6日の創造をされたから7日目は休まれたことが記載されています。人間も仕事をすると共に定期的に休むべきものであることが示唆されています。現に神はイスラエルに立法を与えた時に7日目は休むことを命令されています。  このように神は良きものとして仕事を人間に与えられたことが書かれています。ただ人間の堕落とそれに伴い本来は神に捧げ、喜びの基であるべき労働が罪により自分勝手なもの、そしてストレスを伴うものとなったことが書かれています。  本来の仕事の意味そして人生に意味と喜びを与えてくれるべき仕事への態度はどのようなものであるべきでしょうか?この問いに関して聖書にはこのように書かれています。  何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。 あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。  仕事は良いものとして人間に与えられています。これを信じてお金のためだけでなく喜びの態度で仕事をするといやだと思っている仕事も意味のあることに変わってくると思います。 

希望

東欧3か国の旅を終え帰国しました。チェコ、アルバニア、ポーランドに行ってきました。いずれの国も旧社会主義国です。遺跡などに行く機会が多くありましたがヨーロッパの国々の歴史を見ると本当に戦いの連続です。最近では社会主義からの脱却、ナチスからの解放など多大な犠牲を払ってきています。また特にポーランドではロシアのウクライナ侵攻に関して次は自国かもしれない、という他人事ではない感覚を持っている人が多いことも感じました。ただ私が思ったよりも人々の暮らしはゆとりがありまたインフラもどんどん改善されているようです。まだそれぞれの国ごとに問題は多いようですが東欧諸国の力強さを感じることができました。 私たちの人生にも色々な戦いがありますね。東欧人たちが困難を克服してきたように、また考えてみれば私たち日本人も敗戦から見事に立ち直ってきたように困難はあっても希望を失うことはない、ということを感じました。 希望に関していくつかの聖書の箇所を紹介します。 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。エレミヤ29:11 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。イザヤ40:31 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。ローマ5:5 聖書を読むと私たちは目的をもって生を受けていることを教えられます。決して偶然に存在しているのではない、長くて100年ほど生きてまた虚無の中に戻り忘れ去られる存在ではないことが書かれています。人生には永遠に通じる意味がある!そのことを考えるときに頑張ろう!という勇気と希望が与えられます。私のようにすぐへこたれる人間には本当に励ましになります。

聖書の神様

聖書に書かれている神様は宇宙を造られた神様で人間が創り出した神様ではありません。従って人間の頼み事にかなえる必要はありません。“ここの神様は受験の神様”、“ここの神様は恋愛の神様”など人間の願望が創り出したものではありません。  世界を造った神様は空間も時間も造りだした方です。宇宙の法則、例えば数学的な法則や物理的な法則など科学の原則となる法則を造られた方ということになります。  それだけでなくロジックや倫理原則、また成功の法則も造られた方ということにもなります。この宇宙はビッグバンにより偶然に発生し、宇宙が形造られる過程で数学や物理の法則ができた訳ではない。また人間が集団生活をする過程で倫理などが定められて来たのではないということです。  もちろん人間が決めてきたルールや法則はあります。ただ人間の持っている倫理観は動物とは異なります。すべての人間に共通している倫理観(殺人や盗みが悪いことであるなど)は法律以前のものとして人間が持っているものです。  この世界とその法則を造った方がいらっしゃるとすればその方のプランを知りそのルールに従って生きることが最もいい人生でありまた成功をする方法でもあることは当然です。宇宙を造った神様は秩序を重んじる方であることそして神様の造ったデザインに従って生きることが幸せの近道であることが聖書に多く書かれています。  “主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。”  “苦しい時の神頼み“と言われますが聖書に書かれている神様は苦しみも私たちの益となることとして私たちを導いてくれることが書かれています。楽な方に状況を変えてれるという約束ではありません。聖書を読まれ神様の造った法則に従った生き方をされることをお勧めいたします。 

人生観

私の好きな聖書の言葉として以下の事が書かれています。  “ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています 。”  この言葉から2つの事を考えさせられます。  私を形造った神様は必ず最後には勝利を与えてくださる。このことを信じる者には究極的な希望が与えられている。 そしてその希望を信じて歩む時私たちの心は日々新たなものとして成長することができる。  聖書にはキリストに従う人の心が日々新たにされることが色々な個所に書かれています。創造者である神様を信じそして神様の言葉に従う時に自分の力を超えた愛と平安が与えられることが約束されています。  少し長いですがこのことが書かれている聖書の個所を引用いたします。  ”こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父(神様)が、その栄光の豊かさに従い、聖霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。”  状況や試練に動じない目的を持った人生を送りたいと思います。年を取ってくると体が昔のように言うことを聞いてくれませんが心が絶えず新たにされる、という約束に希望を持ち個々のの成長を実感しながら生きて行くことは幸せです。  最後にもうひとつ聖書の言葉です。  ”わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。”  このような人生観を持って残りの人生を歩みたいと思います。 

一番大切なもの

聖書では愛が一番大切なものとして書かれています。  いつまでも残るものが三つあります。信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているものは愛です。-聖書-  またこうも書かれています。  自分の財産を全部、貧しい人たちに分け与えても、また福音を宣べ伝えるために火あぶりの刑を受けても、愛がなければ、何の価値もありません。 -聖書-  このように大事な愛ですが実際実践することは難しいですね。誤解されたり中傷されたり裏切られたり、と色々なことが起こります。周りの人すべてが自分の良い理解者であることはありえません。敵を愛することは難しいですね。  ただ聖書ではそれができることを書いています。愛は私たちが歯を食いしばって実行するものではなく神様が与えてくださるものであるからです。  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 -聖書-  ここで書かれているのは神から離れることを選択した私たちを初めに神様が愛してくれていることです。私たちの創造者である神が私たちを無条件に愛し、許し、最善を与えてくれているのです。日本人は恩義や忠義を大切にしますが私たちは神様に莫大な恩義があるのです。背を向けた私たちをまずは愛してくださったのですから。  そしてその恩義は神様と神様が創造した周りの人たちを愛することにより少しは返すことができるものだということを聖書は教えています。  このように最初に私たちを愛してくれている神様がいることを信じ、その神様が必ず私たちに最善の道を備えてくださっていること、またこの人生が終わった後に永遠の世界で私たちを出迎え、報いてくださることを信じる時に敵をも愛する力が湧いてきます。  神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 -聖書- 

聖書のメッセージ

聖書では神がこの宇宙と地球と人間を含むその中のすべての生き物を造った、と書かれています。聖書は1500年間に渡り60人以上の著者により書かれたものを集めた本ですが要点は以下の通りです。  人間は特別に神に似たものとして造られた。そして神を愛し神に従う、あるいは拒否あるいは無視することもできる自由意志が与えられた。 最初の人間のアダムとエバは結局神に従うよりも神の言葉に反することを選び取りそのためにこの世界に罪が入った。 神はアブラハムとその子孫から人間の選び取りの結果、罪に堕ちた世界を救い出す救世主を送ることを約束された。救世主は仕え・苦しみを経験される方であること、そして王として来られることの両方が予言されている。  ここまでが旧約聖書です。  預言通り罪の贖いとして神自身が人間の形を取ってこの世に来て神のメッセージを述べ、人間の代わりに十字架で犠牲となって死んだ。(イエス・キリスト) 死んだ後3日後に蘇り500人以上に現れ、今度は王として来られることを約束されて昇天された。そしてその事を体験した弟子たちがキリストのことを世界中に広め始めた。  これが新約聖書に書かれていることです。  聖書に書かれていることが本当の事だという事を証明するかのように考古学的な発見などがすべて聖書に書かれていることを裏付けています。また様々な予言がありそれらが次々と実現しています。  壮大な神のストーリーであり信じられないような神の世界に対しての愛の話です。最初にアダムとエバに与えられた選択は今も有効です。  盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。-イエス・キリスト-  聖書によると神様の問いかけに応答することは豊かな人生を選択するということです。あなたの創造者である神が聖書通して“決して無理強いはしないけどあなたの創造者に目を向けなさい”と私たちに問いかけています。 

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